宮崎駿「コナン」を語る


ジムシィが気楽になれるのも、ダイスがまともなことをやってみせるように なるのも、皆コナンの無言の助けがあったんだと思い込んでるんです、僕は。
見出し

〈初演出としてのコナン〉

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宮崎さんにとって「コナン」が初めての演出作品ということになりますが、 振り返ってみていかがでしたか?
宮崎
やっぱり、しんどかったですね。僕はこれまでパクさん (高畑さん) と 一緒にいましたからね。パクさんを見てると、ああ、演出なんて やるものじゃないな、と思えてね。重荷を一身に背負いますから。 僕が演出を心掛けなかったというのは、それを見てるからですね。
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でも、これまでもコンテは手掛けてらっしゃいますね、 「赤胴鈴之助」とか。
宮崎
ええ、ああいうものは気楽なものですからね。気楽は気楽で、 僕はやる気なんですよ。 毒にも薬にもならないバカな話というか、変に毒があるものより、あったかで、 アッハッハッハ、終わっちゃったという。漫画っていうのは、 そういうふうなところがあると思うんで、だから、 アニメーションと言うより、漫画映画と言ったほうがいいんだけど。
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私は動画でしたけど、それでも、「コナン」やらせてもらって、 すごく嬉しかったなあという気がありますね。こういう楽しい、 発散するようなものをやりたかったんですよ、みんな。 特に前が「母をたずねて三千里」でしょ。 非常に秀(すぐ)れた作品だと思うけど、内容が深刻で、良く仲間内で、 今度は明るく楽しいのをやりたいね、なんて言ってたものですから。
宮崎
僕も、本来、明るくて楽しいものが好きなんですよ。 アニメーターってのは、机に向かってるでしょ。 発散しないんだよね。絵の中でバカなことやってくれると、 書いてる方も発散するということがあるから。 内面的な芝居の中にドタバタが入ってくると、静と動、緩と急というか、 爆発と沈静というか、そういうふうな対比が明確になって来た時に、 お互いが生きてくる。それが、初めから全体のテンポが決まってると、 どうしても作る側が受け身になってくるからね。 ドタバタばっかりでも、また、息が詰まって来るけど。
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「コナン」で、その、つらい演出をやることになったのは、 どういう訳なんですか。プロデューサーの指示は何か?
宮崎
僕は困ってたんですよ、「三千里」が終わって。 もうレイアウトだけの仕事はやるのイヤだと思って。 そうしたら、演出をやらないかという話があったから。 でも、今でも僕は、自分が演出だとか、場面設定屋とか、 画面構成屋というふうに決めたくないんですよ。 これをやってみたいというものがあったら、演出に限らず、 本当は、一アニメーターでいられたらと思います。
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自分の世界を作りたいというか……。
宮崎
そうですね。今までは、やりたいものが、パクさんと一致してて、 非常にうまくいってたんだと思うんです。今から思うと、 パクさんは悶々(もんもん)としてたところがあったと思うんですけどね。 僕としてはうまくいってると思った時でも、パクさんは、 アニメーションの演出って何だろうと、しょっちゅうぼやいてたんです。 これまでパクさんと一緒に仕事をする時は、話の筋から、 何をどうするかというところまで、二人で克明に話し合って、 寝っ転がって話してるうちに、 何となく二人の間に共通のイメージが湧きあがって来て、 じゃあ絵にするかという、そういうやり方だったんです。ところが、 「ハイジ」の頃から、画面設定のレイアウトやってるだけで 間に合わなくなって来て、「三千里」ではもう、 パクさんに全部お預けになっちゃってね。 そうすると今度は、こっちの欲求不満が高じて来るんですね。
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で、「コナン」ということになる訳ですね。 「コナン」の場合、スケジュール的にはどうでしたか。
宮崎
一話の作画インから放映まで半年以上ありました。 その間に八本のストックを持ってスタートしたのに、 すぐ放映に追いつかれてしまって。どうやっても一本十日から二週間、 制作にかかっちゃうんです。NHK が特番を入れてくれなかったら、 ガタガタな作品になっちゃったでしょうね。とにかく「コナン」は、 NHK だから出来たんですね。NHK が全部こっちにお任せにしてくれて、 シナリオなんかでもコンテが出来た後から作ったりとかね、二十六本作るのに、 結果的に一年三カ月かけた訳ですからね。会社 (日本アニメーション) は、 製作費で随分赤字を出したんじゃないかと思いますけど。
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制作の準備期間というのはあった訳ですか。
宮崎
これははっきり覚えてるんですが、明日から「ラスカル」(の原画) やらないよと言って抜けたのが六月十五日で、 作画インしたのが夏の終わり頃だったから、三カ月くらいです。
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その間に、全体的な構成は出来ていたのでしょうか。
宮崎
出来てるような、ないような……。本当のことを言うと、 ラナを助け出して砂漠に出て行くまでしか、頭の中には出来てなかったんです。 その後は、どうにかなるだろうという……。大きな変わり目になる、 ラオ博士と合うところまではシナリオになってたけど、 世界としては出来てなくて、その九・十話というのは、 パクさんがシナリオを踏まえてやってくれたんです。 あそこが僕の限界でしたね、体力的な。本当は、 バラクーダ号に乗って逃げ出して、ハイハーバーへ向かう船の中で、 ダイスとコナンがラナをめぐってバカをやる、 ひたすらバカをやるという話になるはずだったのが、それが、 どうやってもならないんですよね。 代わりにコアブロックが出て来ちゃった。

〈原作との兼ね合い〉

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それは、原作の持つ暗さに引きずられたということもあるのでしょうか。
宮崎
初めは、原作は余り気にしないでやろうと思ってたんです。 恐ろしすぎてね、テーマが。とても立ち向かえないと思ってたんですよ。 ところが、自分の息子がテレビ見てね、聞きに来るんですよ。 あの人達 (地下の住民のこと) どういう人、とか。 プラスチップ島の住民についても、ものすごく心配するんですよね、 あの人達どうなるのとか。こりゃいかんなと思いましてね。 この物語はコナンとラナの恋物語なんだと今でも思ってるんですが、 そのへんを避けて通ったら、コナンとラナは所詮(しょせん) ただの惚(ほ)れた同士に過ぎないのかということになっちゃう。 欠落していた部分にはっきり気付きまして、さあ、どうして良いか判らない。 自分では、原作の最終戦争後の世界という設定を、 冒険物語を作るための舞台と割り切っていたつもりだったのが、やはり、 終末という現状の重さに縛られていたんですね。
 牢屋から手がいっぱい出てたでしょう (第七話)。 あいつら何なんだろうとか考え出すんですよね。 謎ときみたいになっちゃった。関係が逆になっちゃって、 あなたは一体何をしている人ですかってキャラクターに聞かなきゃいけなくなっちゃった。 スタッフ全員、何処に連れて行かれるのか判らなくって、僕も判らない。 本当に悲惨な状態でした。情けない話ですけど。 A パートが出来ないと B パートが判んないんです、何がどうなるか。 だからもう、演出プランもへったくれもないんですよね、本当のこと言うと。 情動アニメーションって言ってたんだけど、情緒不安定に動いて行っちゃう。 しかし、あの話はああしか作りようがなかったんですね。
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原作の選定は NHK の方ですか。
宮崎
いや、NHK がアニメーションを始めるというので、日本アニメの方から、 幾つか企画を出したらしいんです。その中に、この「残された人々」 も入っていたんですね。その時の本命は別の作品だったらしいんだけど、 NHK がこの方が面白いからと言って来てね。だから、 最初に僕のところに来たのは、この企画じゃなかったんです。
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アレクサンダー・ケイの「残された人々」というのは、随分暗い話ですよね。
宮崎
あの原作の暗さってのは、あの作家の持ってる世界観の暗さだと思うんです。 それを語っていったら、そんなに楽観的な答えは出て来ないでしょうね。 僕らは日本に住んでいるから尚更暗く感じるっていう気もするんですけど。 でも、だからといって、それを語る必要があるのかなあという気があって 人類が終末後にも生き残るなら、生き残る人達ってのは、 やはり生命力に溢(あふ)れてる人達でね。 僕は、自分の子供もそうあって欲しいんですよね。 人類は滅びるんだと言い出されるよりは、目の前にいる女の子にドキドキして、 追っかけまわしている方がいいんでね。
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原作との兼ね合いはどんなふうにお考えでしたか。
宮崎
原作との関わりについては、僕は、 尊重しなければならないほど完成度が高い作品なら漫画映画にはしない方が いいんじゃないか、むしろ、原作は漫画映画の発想の引き金と考える方が いいんじゃないかと思ってるんです。企画は単なる器と考えて、 その器に何を盛るかは、こっちの領分だと。
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で、あの原作なら、話を変えてもいいだろうと?
宮崎
ええ、勝手に判断して。原作を返るについては、NHK 側に、 原作者との兼ね合いで不安があったらしいけど、僕は、 変えても良いというのを条件にして引き受けましたから。
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随分と変えてますね。
宮崎
あの原作、好きじゃないんです。ペシミスティックで、しかも、 アメリカとかソ連とかいう見方が絡んでいてね。終末というか、 最終戦争物というのは、作家の持ってる潜在的な不安や恐怖の上に成り立っていて、 ただペシミスティックなものを引きずっていてね、 −−それを子供に向かって力説するのは実にくだらない行為だと思うんですよ。 大人にたいして力説するならいい、 でも子供に対してそれを語りかける必要はないじゃないか、 だったら黙ってた方がいいって。
 あの原作は、ケイという人が、基本的には今のアメリカも良くない、 でもソ連も良くない、だけどどうしていいのか判らない……だから生き残った時、 帝王コナンみたいになっていくんだろうという前提のもとに書いた作品じゃないだろうかと思う。 あそこには希望のひとかけらもない、生命力もない。 否定的な側面は一生懸命、力を込めて書いているけど、 否定的な側面を書くのは楽なんですね、ある意味では。 現実には弱さとか卑劣さとかが満ちていますからね。でも、自分では、 そういうものは描きたくないんです。
 原作の、心象風景みたいな暗い海と灰色の空と岩だらけのゴツゴツした所、 荒涼として自転車に乗るのが夢みたいな変な社会と、 ハイハーバーという訳の判らん社会というのは、希望の生まれない世界だと思う。 ああいう所には、コナンのような少年は生まれるはずがないと思う。 自然が回復して人間を赦(ゆる)すから、赦すというのはおかしな表現だけど、 生物が生きていくための基盤を作るから、 動物としての人間が生きられるんだと思う。逆に言えば、 コナンのような人物を作るには自然が回復していた方がいいと思う。 自然が回復力があるんだという発想は日本人の発想だと言われたことがあるんだけど−−。 木を伐(き)ったら、あとに雑草がワーッと生えて来るでしょ。 ところが世界には、木を伐ったら、あと何も生えて来ない、 そういう場所はざらにある。そういう所の人間は絶対にああいうものは作らない、と。 逆に言えば、最終戦争の後、生き残った人間が、 駄目なのもいっぱいふくんで生き残っていくとしたら、 自然がまず回復していなければ、人間が生きのびていけっこないと思うんです。
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すると、テレビの、最終戦争から二十年後、 地球が再び青い空と澄んだ海を取り戻したころという設定は、 そういった意味のあるものなんですね。
宮崎
ええ、自分の願望含みで作ってます。 これも取って付けたようにしか聞こえないんですけれど、ラオ博士の 「数十億の人類を殺し、数万種の動植物を絶滅させた責任云々」というセリフも、 僕にとって思いがこもっているものなんです。
 僕は、本当は全部日本人にしたかったし、日本人に出来ないのなら同国人で、 言葉の問題とかそういうのは全部忘れてね、 色分けのために髪の毛の赤いやつも出て来るけど、 基本的には異人種が入って来るという話にはしたくなかったんです。 日本が沈んで、房総半島の先の方が残ってるとか、 どっかのコンビナートが残ってるとか、そのくらいのつもりでやった方がいいと思って。 要するに距離の問題は、交通手段がなくて、未知の世界になれば、 遠く感じるようになりますから。ハイハーバーなんかも、 本当は麦畑じゃなくて、水田で米作ってる方がいいと思うんだけど、 それをやろうとすると、その前の問題がありすぎてね。 そういう世界を作ろうとすると、あまりにもルールが要(い)るんです。 それをやって行くには制作にゆとりがなくて、 スタッフみんなの共通語で世界を作って行くしかないから、 ああいうふうになってしまったんですけどね。 西部の開拓時代みたいになっちゃったのは、どうも抵抗があるんです。 ダイスじゃなくて団十郎でね、バラークーダ号じゃなくて弁天丸でね、 フォークとナイフじゃなくてハシと茶碗をもってね、 「メシーッ」って言ってる方が、あの人物にぴったりだと思うんですよ。
 ソ連とかアメリカとかいう見方は傲慢(ごうまん)で、僕は嫌いなんです。 僕はそういうふうじゃなくしたつもりなのに、にも関わらず、 ハイハーバーはアメリカで、 インダストリアはソ連だという見方をする奴がいて、頭に来るんですけどね。 そういうふうなソ連観、アメリカ観を持ってること自体が問題なのであってね。
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「コナン」というと、どうしても「ホルス」との関わりを感じてしまうのですが。
宮崎
僕は「ホルス」については語れないですよ。ほんとに。キザな話だけど、 青春そのものなんですよ。あらゆる恥ずかしさが全部入ってる。 僕もパクさんも若かったから出来たんですよ。もう、 今なら恥ずかしくて口に出せないようなことも言ってましたからね。 人間を描こうとか……野心に燃えてたんです。
 初めは、「コナン」で何をやったらいいのか判らなかったんです。 元気のいい、今のアニメーションではあまりやらないような古典的な冒険物語で、 なおかつ「ホルス」でやり足りなかった、 あの挫折(ざせつ)したおっさんの世代を受け継いでいくということをやろうと思って。 挫折とかいろいろあるけど、 次の世代に対しては自分のやって来たことを否定するのではなくて、 何か受け渡していくような、 世代から世代へ交代していくというようなのが好きなんです、要するに。 自分なんかは世代から世代へ受け継いでいくような立派なことは息子にはとても言えないような人間だから、 逆にそういう意識があるのかも知れないけど。
 「コナン」を始める時に、これがつまらないといわれたら、 もうアニメーションやめようと思ってたんです。でも、 自分の息子達が熱烈なファンになってくれた。 親父がやってるから見るっていう連中じゃないから、 心細いものを便りにしてるけど……。
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視聴率的には奮(ふる)わなかったですね。
宮崎
二十五話 の十四%が最高ですからね。 でも、視聴率が上がらなかったのも判るような気がするのね。 時流に背を向けたものを作ってたからね。 初めからギガントを飛ばせばよかったのに、 そうすればもう少し視聴率が上がったんじゃないかって言う奴もいるんだけど。 ギガントなんて最初の方で格納庫で見つけて、 飛ぶまですっかり忘れてるんだものね。でも、初めから飛んだギガントより、 二クールかかって飛んだギガントの方が意味があると思うのね。 でも、こんなに視聴率を気にした番組ってなかったですね、 スタッフ全員が一生懸命作ったから。
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あれだけ完全な連続物というのはなかったから、 一回見逃すとついて行けないという面もあったのじゃないでしょうか。
宮崎
それも、前に言ったように、A パートが出来ないと B パートが出来ないからなんですよ。何でもそうだと思うんですけどね、 いろんなものを見たり聞いたりして、いっぱい頭に入ってるでしょ。 それをそのままでは思い出さないけど、一生懸命頭をひねってると、 それがふわふわと寄って来てね、いろんな要素が集まって来て、 だんだん縄になって来るところがあるんですよ。ところがうまくならないのね、 「コナン」の場合は。で、あちこち引き出し開けてみるんだけど、 かえって気が狂うようになって。ただ判ってるのは、コナンは最後には、 のこされ島へ帰って行く人物だということだけで。帰って行くから、 こいつはやるんだと思って。だから、 最終回で、 のこされ島がフィルムに見えた時は嬉しかったですねえ。本当に、 帰ってきたなあと思って。一時は帰れないかと思ったから。
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NHK からの規制は、例のタバコの件だけですか。
宮崎
あれも、NHK は初めは構わないって言ってたんですよ。 ところが放映前に別の番組でタバコの問題があったらしくてね。 僕は、タバコを吸うというのは、あれ一回こっきりのつもりだったし、 肯定的に描いたつもりだったんです。ジムシィという少年の性格を、 焼け跡で元気に走りまわってた少年という感じで設定したから、 当然タバコも吸うだろうと。物々交換でも、 食い物は自分で賄(まかな)ってる訳だから、 欲しい物はせいぜいタバコぐらいだろうって思ってたんです。ただ、 放映されるまで、 こちらにはカットされたことが判らなかったというのは腹の立つことで……。 かといって、事前に、判ったうえで作り直すというのも腹の立つことでね。 言葉に対するテレビコードというのもあるんです。 僕はキチガイというのが大好きで、 ダイスに対して「とうとう狂った」って言わせたかったんだけど、駄目なんですね。 ロボノイドの指も五本なければ困るというのも強烈に局から来ました。 指は三本か五本ならいい、四本は駄目と。後で聞いたら、 メカ物やってる人はみんな知ってることなんですね、要するに差別の問題で。

〈一話について〉

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たまたま NHK で 一話で、 の試写を見せてもらって、あっすごい! と喜んだのですが。
宮崎
一話ですが……。僕はもう、一話を見た途端、首を吊ろうかと思った。 シネビームって録音スタジオに行くと、 裏がお墓で、そこに紐(ひも)がぶらさがってるんです (笑)。 ラナってのはね、コナンが一目見た途端に、 一生この女のために頑張るぞというくらいの美少女でなければならないと (僕は) 思い込んでるのに、すごいブスラナが出て来ましてね。
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一話はもう完全に大塚さんの絵ですね。
宮崎
そうなんです。僕はそれから狂ってね。 二話から全部原画チェックを取っちゃって、八話まで取りきりに取っちゃってね。 それで大塚さんはすっかりコンプレックスに陥りましてね。 僕はやっぱりアニメーターなんですよ。 コナンがラナを抱え上げる時は“取りのように軽やかに” 持ち上げなければならないのに、大塚さんは理屈の人だから、 ヨイショって持ち上げてる。 あれは大塚さんの奥さんを持ち上げてるんだなんて悪口を言ったりしてね。
 「ハイジ」で始めた、歩幅を狭くしてね、タッタッタッて歩いて来るとか、 延々と歩いて行くとか、あるでしょ。 でも、地平線から三歩くらいでやって来るってのが漫画映画でしょ。 アルファルファじいさんとか、僕は大好きなんだけど、 向こうからダーッと走って来る、ああいうのは漫画映画でなきゃ出来ないでしょ。 あれを実写でやれったって出来ない。 そういうアニメーションの属性を捨ててしまうのは、 本当にもったいないことだと思うんですよ。全力疾走だったら、 普通の人間じゃ出来ないくらいの速さで走って来て欲しいしね。 そういうことは一種の表現になると思うんですよ。 日本アニメーションはこれまでゆったりしたタイミングのものをやってきましたからね、 「コナン」はものすごい当惑を持って迎えられたんですよ。 忙しくて気が狂いそうだとかね。 スタッフの中にも、それは、ずっと続いてましたからね。

〈コナンの設定〉

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コナンというのは、宮崎さんにとっての理想の少年像というか、 かくありたかった自分として設定したのでしょうか。
宮崎
そうたずねられると困ってしまうなァ……。 でも、コナンのような少年像は好きですね。子供がね、空想の中で、 自分を物語の主人公にしていける年齢って幾つくらいかなあって考えるんです。 お姫様を救うとかいう古典的な願望の主人公になれるのは、 十一歳くらいじゃないかって思うんです。 だから僕はコナンを十一歳にしたんです。息子が十二歳になったら、 コナンも十二歳だなんて言って、いいかげんなんですが。 子供の憧(あこが)れや願いを形にしたつもりなんです。現実の成長でも、 ラナにしても、時によって大人になったり、子供になったりしてるけど、 それは漫画映画だから許されることだと思ってる。
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「コナン」を女の子と見ると、みんなコナンは理想の人だというんですよ。 常にやさしいでしょう。
宮崎
誰でもそうだと思うんだけど、本当にやさしい気持ちになって、 その人のために一生懸命やってあげたくなるような人に出会いたいと思っているんですよね。 そうじゃないですか? 僕はそう思ってるけど。 これは、誓いを立てて一生一緒に暮らしていくのとは別の次元の問題だけどね。 幸いなことに、すべての男が狂い出して、 その人のためにやさしくなろうと思うような女性は比較的少ないからね。 そういうのは、憧れにとどめておいた方がいいんですけど。 「少年王者」(山川惣治原作) の世界なんかそうですね。 そういうことをぬけぬけとやれた時代は良かったですね。
 コナンはスーパーマンじゃないんです。 愉快に楽しく暮らすことを考えている普通の子供です。 ただ、人間は多面性をもってますからね。あの状況の中で、 ある一面の姿が高揚する、それがコナンだった訳です。 コナンは冒険を求めて行動したんじゃなくて、あの状況の中で精一杯生きていったんです。 コナンはラナを通じ、ラナはラオ博士を通じて世界を見ていく。 そして最終的に、コナンは、何があの世界で生きていく上で一番大切なのかを、 見をもって体現していく。活力や、たじろがない精神や、 他人への理解みたいなものを、口で言わないけど体現する少年になっていく。 ジムシィが気楽になれるのも、 ダイスがまともなことをやってみせるようになるのも、 モンスリーが変われたのも、 皆コナンの無言の助けがあったんだと思い込んでるんです、僕は。 コナンはいい子すぎるっていう人がいるけど、僕は、 あの状況で相変わらず無邪気な極楽トンボでいるコナンより二十三話で、 フライングマシンの爆発を見ていて「やった!」って言わないコナン。 それより、人を殺したという重さを全身で受けとめているコナンの方が好きですね。 怒りは持っているが殺意は持たない少年なんだって思ってるから。 軍艦(ガンボート)が沈んだ時にも、「やったーっ」っていわせたくないんです。 この作品に関してだけだと思うんだけど、「やった、ざまあみろ」って、 お客は思っていいんだけど、コナンが「やった、バンザーイ」ってのは、 何か違うんだと思うんですね。それが、いい子すぎる、 バイタリティが足りないって批判になってると思うんだけど。でも、 そうじゃなかったら乗り切れなかったろうって思うんですね。 漫画映画の主人公というか、冒険物語の主人公というのは、 そういう人達ですよ。むしろ、いい子すぎるって言う人の方が、 僕はあんまり好きじゃないんです。悪い子見たいの、お前は? って言いたくなるんで。コナンの形象化、 その時々の気持ちみたいのが表現し切れなかったから、 いろいろ問題があるんだなって思うんですけど、だけど、実にいい奴、 気持ちのいい奴ってのは、いていいんですね、物語の中に。 最近のメカ物見てると、少年と青年の間みたいな主人公が、 隊長とか博士とかに何か言われると、 「わかったよ!」とか小生意気な口きくでしょ、第二次反抗期の息子みたいなね。 ああいうの見ると、張り倒したくなるんだよね、やなガキだなあと思って。 ああいうのがヒーローってのは、どうしても僕には納得出来ないことなんですよ。

〈ラナへの思い入れ〉

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ラナについてはいかがですか。 宮崎さんの理想のヒロイン像と思いますが。特に、あの八話のラナは。
宮崎
八話の時には、僕が、こう、熱烈に思い入れしすぎまして。 八話 ってのは、自分のやりたかったこと、 パクさんと一緒にいたら絶対に出来ないことを全部やっちゃったんです。 やりすぎたとか批判も出ましたけどね。 僕も初め脚本を作った時には恥ずかしくてとても出来ないだろうと思ってたんです。 でも、五話、六話とやってくると、だんだんラナに思い入れして来るでしょう。 そうすると出来るんですね。思い入れしなきゃ出来ないですよ。 あの水中シーンは、終わってから考えると、 学生時代に描いた漫画のストーリーにそのままあることを発見しましてね。 十五年間そこに埋もれていた訳ですよ。カット割りみたいのまで同じで、 水平線上に水中翼船があったのが、ガンボートに変わっただけなんですよ。
 でも、ラナってのは、ある所でけりがついたんですね。 初めは自分のものだと思って作ってたのが、 途中からもうこれはコナンのものだって。僕も感心が薄れたりして。 ウソですよ、みんな。船が沈む時、その部屋だけ無事なはずないし、 爆発で吹っ飛ぶかも知れないし。ただね、僕はああいうの好きなんですよ。 フライングマシンに乗る時ね、荷物を渡すと、ラナが何も言わずに、 「はい」と受け取るでしょう (十一話)。 フライングマシンに飛び乗るときも、 コナンが「開けて」と言うと、ラナが「はい」と言って開けるでしょ (二十三話)。
 原作のラナってのは、ダイスの持って来た機織(はたお)りの機械がほしいと思うんです。 自分で機を織るのが嫌なんですよ。 ああいう人物では未来につながらないですね。
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それで、ハイハーバーでは服を着替えさせて、機織りをしている。
宮崎
着替えさせたかったんです、とにかく。 あの麦畑の中にいるラナが本当のラナだと思ってるから。あの話 (十四話) はあんまり評判良くなかったんだけど、僕は好きなんです。 やっぱりあれがラナなんだと。あのラナに執着があるから。
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のこされ島に行く時も、あの服を来て行くんでしたね。
宮崎
そうです。ただ、あれが田舎っぽい服だって言われてね。 色指定の人に、もっといい服にすればいいのにって。 その人はジムシィのモンペが気にいってね、最新流行だから。 あれはひとときの開放だったけど、開放感を出したかったんです……あのね、 コンプレックスだらけの男の子が、 目の前を白い帽子をかぶった長いスカートの女の子が自転車でサーッ! と過ぎて行くのを、呆然(ぼうぜん)と見送ったをいうような感じの経験ないですか? ああ、ああいう世界があるのに、俺には手が届かないなあという、 何とも言えぬ憧れと悔しさをもってね。 小学校か中学校の、そういう記憶があって、 そういう女の子をかついで走れたらいいなあと思うんですよ、僕は。 それをぬけぬけと。
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だから最初の方で、インダストリアの港にモンスリーが出て来るのに、 わざわざ服着替えて自転車乗って来るんでしょう、思い入れで。
宮崎
思い入れしてないですよ、あの時は (笑)。 ラナってのは、もともとどっかかげりのある女の子で、 ひたすら博士の心配してる女の子だったのが、 突然コナンが抱き上げて走り出したりしてね。 そうしたら、ラナは実は明るい女の子だったんだってことになって、 そういう部分を引き出したのはコナンだと思うんですよ。 ラナにとってコナンってのは次元の違う人間というか、 突然そんなことをされてしまったがために、変わらざるを得なかったとかね。
 ラナってのは、ラナをめぐる二人の男、ラオ博士に対する気持ちと、 コナンへの気持ちとに引き裂かれているんですね。 コナンといる時は確かに微笑(ほほえ)んでいるんだけど、 頭のどっかにラオ博士のことがいつも引っかかっているんですね。 ラオ博士とコナンと二人並んで横にいてくれる時は一番明るくいられるんです。 あの 十一話 のラナなんて、バカじゃないかと思うくらい子供になってるでしょ。 でも、三角塔を開放して、地下住民達みんなが自由になっていく中で、 ラナだけがラオ博士に縛られて、どんどん心が閉ざされていく。で、 コナンの声も聞こえなくなってしまう。 本当はラナ自身が気付いて自分から稍(と)ぶようにしたかったんだけど、 しようがないんで、ラオ博士がそういうことを全部判ってて、 お前はもうコナンの所へ行くんだよ、自分から離れていいんだって言って開放してやるしかない。 そうすると、ラオはどうしても死ななきゃならないなと思って。 あの「コナンならとめるわ」ってセリフは、ラナが少しずつ、 おじいさんから離れている証拠なんだって思うんだけど、博士が死なないと、 ラナは本当には開放されない。 いつまでも、おじいさんコンプレックスを持ったままね。そういうことは、 コナンには判ってたんじゃないかって気がしたりして。だから、 戦車の上でラナを抱きかかえた時 (八話) なんかも、 ものすごくラオ博士って人に怒りを持ってたんじゃないかなんて思うんですよ。
 毛沢東にしろ何にしろ、歴史を動かしていこうとするのは悪人だから、 ラオ博士は悪人だと思う。 あの人は世界を滅亡させた責任を感じて次の世代へ橋渡しをするために生き恥をさらして来たんだけど、 インダストリアが自分で開放する力を、ルーケ達が自分で立ち上がって、 地下を抜け出して新しい生活を作ろうという力がなかったら、あのまま見捨てて、 海に沈むに任せていたと思うんですね。そういう非情なところがあって、 場合によってはラナが犠牲になることもあえて辞さない男だと思うんです。 ヒューマニストじゃないと思うんですよ。 ヒューマニストは一人も出したくなかったんです。
 よく、人質をとって脅すとたいてい屈するでしょう。見通しがなくても屈する。 「ガメラ」なんか、少年が二人くらい人質になると、 二人の少年のために地球防衛軍が降伏するんですよね。そういうことは、 絶対許されないことだと思うんですよ。 何万人人質になっても降伏しないものだと思うんです。 どうしても譲れないものがあったら屈しない人の方が好きですね。 ヒロインにしろ何にしろ。ラナが、コナンにイレズミ銃を突きつけられた時、 嘘つくことも出来る訳でしょ。協力するって言うことも出来るはずだけど、 僕らのように世慣れたのでない、潔癖な女の子だったら、 単にその急場を乗り越えるだけでなく、 この一線だけは絶対譲れないものを持っていて、断固として守るだろう、 いや、守れる人でなければヒロインにしたくない、 という気持ちがあるんです。

〈モンスリーとダイス〉

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ラナに対する思い入れはよく判るんですけど、後半になると、 モンスリーの比重が増して来ますね。
宮崎
情動アニメーションだなんて言ってたんだけど、 演出はもっと冷静に表現したいものを計算していくべきなのに、 情緒で動いていっちゃう。思い入れしないと出来ない。 その人物にのめり込んでいっちゃう。 そうすると可哀相(かわいそう)になってきましてね。 モンスリーなんか涙が出そうなほど可哀相になって来るんですよ。すると、 何とかしてこの女を助けなければならないという気になって来るんですね。 助けようとすると、コナンに惚(ほ)れてくれればいいけどね、 これはラナがいるし、駄目なんですよ。 じゃ、ダイスと結婚させようと思いついた途端に目の前がパーッと開けてね。 これは要するに普通の女になることなんですよ。僕はモンスリーみたいな、 ああいう女の人が好きなんですよ。突っ張ってて強そうに見えるけど、 実は自分を変えてくれる人を待っているという。そういう人を見ると、 やさしい言葉の一つもかけたくなってね。 人が変わるっていうのはどういうことかといったら、 突っ張ったまま変わるんじゃなくて、 突っ張らなくても済むような気持ちになることだと思うんです。 どうしたら突っ張らなくて済むかっていったら、 その人間が突っ張っていることを非常に深く理解してくれる人がいて、 −−なぜその人間が突っ張っているか克明に知った訳じゃなくて、 その人間の存在の表面の奥にあるものを理解する人が現われると、 その人間は変わり得るんじゃないか。 一つのバリケードを自分で壊すことが出来るというのかな…… それはダイスが壊したんじゃないですよね。
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あの少女時代の構想は前からあったのですか。
宮崎
まあ、種明かしをしてもしようがないんだけど、 モンスリーは全部忘れていたと思うんですよね。 思い出したくないことは忘れますよね。でも、ハイハーバーの、あの緑を見て、 気落ちして、ガンボートを沈められて、ああ、 ガンボートに助けられたなあってことを思い出してね、 そうしたら子供時代を思い出すかなと思って。
−−
モンスリーがダイスと結婚するというのは。
宮崎
あれは最初冗談だったんだけど、冗談で言った途端に、あ、面白いなと思った。 そうすると、モンスリーにダイスを、この人、 割といい人なんだと思わせなきゃいけない。それはダイスの枷(かせ)なんですよ。 ダイスの良さってのを少しずつ出さなきゃいけなくなって、 それが結果的には良かったんです。モンスリーが普通の女になって、 常に持っている心の緊張状態とか、自分で自分を抑圧するとかいうのから開放された時に、 今まで実にくだらなく見えたものも、自分自身で別の見方が出来るようになる。 ダイスって男が実にバカで初めっから「バカ、バカ」って言ってますからね、 ダイスのことは。「バカねっ」て言い続けているうちに「バカ」の中身が変わって来てね、 また、ダイスが「バカ」って言われることをあえてやってますけどね。 そうしていくうちに物の見方が変わって来たりする。
 ダイスの、船に対する真剣さみたいなものは一貫して貫いたのは良かったと思ってるんです。 モンスリーがダイスの中に、あ、この男もいい部分持ってるんだって見出したのは、 その大事な船を見捨ててもしようがないから「海の男空に死す」ってね、 ここに残ろうって言ったダイスを見て、 ちょっと心を動かされたのかなって思うくらいでね。 後はおんぶされちゃったりね、「ラナより重い」なんて言われたりして、 何かこういろんなことされちゃうとまずいとこが出て来て、 しようがないからということもあったりしたのかななんて。僕は、 そういうふうなことをモンスリーが平気で出来ることが、 モンスリーにとっては突っ張ってる状態を抜け出すことだと思うんです。 そうして普通の人間になっていくことがモンスリーの場合は解放なんだと思うんです。
 最後にダイスは振られてもよかったんだけど、振るのは可哀相だし、 みんな子供が出来てるんだしね。結婚式でダイスが、 とんでもないことしちゃったと思ってね、次に良かったと思って、 しばらくするとやっぱりとんでもないことしたと思うに違いないですよ。 ダイスはあくまでもダイスでいて欲しかったという感想がありましたけど、 僕はあれこそダイスだと思うんです。モンスリーを見たときには真面目になってね、 顔もりりしくなる。そういう時って人間はりりしい顔になりますよ、誰でも。 でもまた、そばに美人がいると、あ、いいなと思ったり、 気付かれないようにそっと行って何かちょっかい出したりってことは、あの人、 絶対やるんだと思う。そういう人なんです。だから、 ああいう真面目な顔するんです。そのへんが判ってない人はね、 ダイスが何で真面目になって終わったんだなんてね。判ってないなと思ったりして。 モンスリーというのは有能で頭が良くて、 スタッフからは、ダイスにはもったいない! という声が出ました。 だいたい御婦人方にはダイスのような不誠実な男は人気がなかったけど、 中年の男達にはよく判るです。自分立ちもああいうようにいいかげんに生きてるから。 あの男は船乗りのプロで、バラクーダ号に乗ってる時だけは有能な男で、 その時はいつも真剣なんでね、そういう真情溢れる人物は非常によく判るんです。 ダイスは初めは悪役にするつもりだったんですけどね、 最後までハイハーバーで頑張ってラナに言い寄るという。 しかし、そういうふうなデタラメな男ってのは、 一人の女を愛し続けて執念深く追い廻すのは無理なんですね。

〈レプカ〉

宮崎
何しろ思い入れしないと出来ないんです。 レプカにだって思い入れしちゃって。
−−
レプカにですか。
宮崎
悪役で頑張るはずのダイスがおりちゃったでしょ。 後に誰もいないんですよ。浜の真砂(まさご)は尽きるとも…… という感じで予備軍がごっそりいるならともかく、 レプカ一人倒したらもういないんですよ、そういう設定だから。 可哀相に、レプカは発狂してるんじゃないかと思うんですよね。 レプカは孤立無援なんですよ、一人で踏ん張ってる。 原子炉は消えかかってるし、ガンボートは行ったまま帰って来ないしね。 食い物はないし、地下の住民はゴソゴソやってるしね。発狂しますよ、あれ。 イレズミのハンコ押したのも、レプカ一人で押して廻ったんじゃないだろうしね。 何が何だか判らなくなって来てね、本当のこと言うと。 僕は浄化作用ってのが好きだから、あそこで「うろたえるな!」ってもう一回言ったら、 本当に漫画になっちゃって、絶対殺せなくなっちゃう。 ギガントに乗って世界を征服ったってね、 判っているのはハイハーバーとプラスチップ島だけだからね。 そこを支配するったってね (笑)。あそこでレプカが考えることといったら、 とにかく麦刈りしてる戦闘員を取り戻してね、あそこに別荘たてて、 他に生き残ってる奴いないかなと捜しに行くとかね (笑)、 やることあまりないんですよ。いわゆる世界を征服するとか、 世界をもう一回壊すとか思ってる訳ないですよ。 本当は自分を愛してくれる女が欲しかったんでしょうけど、 モンスリーじゃ飽き立らなかったらしくて−−振られたのかも知れないけれど。 ホモだなんて噂(うわさ)があったりして、 スタッフの中ではメチャクチャなんですよ。 あの目つきはやらしいとかね (笑)。
−−
ダイスとですか (笑)。
宮崎
テリットと組むんじゃないかとか (笑)。
−−
ギガントはもう一話くらい戦い続けるんじゃないかと思いましたが。
宮崎
そうすると、レプカを浄化せざるを得なくなっちゃうんです。もう一回、 「うろたえるな!」とわめいたら、もうレプカは殺せない人になってしまう。
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そうでしね。 あと一本あったら、憎めない人になっちゃったんじゃないかと思います。
宮崎
ええ、あれでもね、レプカは生きてる、のこされ島に先に着いてて、 ロケット小屋に住んでるとか、バカを言い出す人がいるんですよ、 まわりにごろごろと。 自分の性格的にも、あのまま冷静には続けられなくてね、殺せなくなるんです。 そうしたら今までシリーズでやって来たことの意味がなくなるでしょう。 自分の趣味に流されちゃうといけないんじゃないかと思って。 どうも悪人が苦手なんです。なんか根はいい人だってなっちまう。 レプカなんかもそうなりかかるのを一生懸命こらえていたんです。 あの人は背広を着てると駄目なんですよ、 せいぜい意地の悪い官僚にしかならなくって。だから戦闘服着せて、 なるべく体格よくして、胸なんかも厚くしてね、 少しはワルそうに見えるように一生懸命やったんですけどね。 必死になって駆けずりまわる人物、なりふり構わぬ人間は、 見てる側が許していくんですね。

〈漫画映画の浄化作用〉

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先ほどお話に出た浄化作用についてお聞きしたいのですが。
宮崎
僕は好きなんです、それが。 悪い人間、例えば「ホルス」のヒルダなんかもそうだと思うんだけど、 ヒルダが心変わりしていって、際後に雪狼にやられるでしょ。 あれがなかったら誰も許さないと思うんです。 悪役なんかが実にうれしい人物に変わっていく変化というのは、 浄化作用が働いた時に、例えば憎たらしい奴がいい人になって来る。 浄化作用ってのはいろんなあり方があるんだけど、例えばモンスリーは、 あの瞬間、死んでもいいと思った。鉄やプラスチックの中でなく、 緑の中で生きたいという強い願いを持っている自分のこれからを投げ出したから、 浄化が完了したと思ってるんです。ダイスもそれで、 バラクーダ号に対する執着を捨てた時に、初めて本物のバラクーダ号を手に入れる。 どうも口に出してしまうと図式的ですけど。
 この物語は、みんな無邪気になって終わったでしょう。 “これから”へ戸口を開いて終わったと思うんです。 キャラクターもみんな若返って……。 ジムシィも最初に出て来た時よりずっと子供になって終わったし、 ラナも最終話でようやく子供に戻れたし、ダイスなんかもすっかり変わったし、 モンスリーも若返ったし、みんな若返ったでしょう。 キャラクターが成長するとか何とかいうけどね、漫画映画のやることはね、 何か偉そうなことを言う人間になっていくんじゃなくてね、 いろんな束縛から解放された人間になっていくことだと思うんですね。 そういうのを見たいんです、自分は。みんなたいてい何か引きずってるでしょ、 変なコンプレックスとか。ラナなんかも、祖父とより、 コナンと一緒にいたいという自分の正直な気持ちを認めたんで、 コナンのところへ稍(と)んで行けたんです。 ラオへの尊敬や愛情も、その方が、強くなるんじゃないかと思う。
 僕は、漫画映画というのは、見終わった時に解放された気分になってね、 作品に出て来る人間達も解放されて終わるべきだという気持ちがある。 出て来る人間達が無邪気になったというのが、僕は好きなんですよ。
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宮崎
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宮崎

〈漫画映画を目指して〉